2018-05-26

・オイリュトミーの歴史とペルセパッサ・オイリュトミー団




 オイリュトミーは20世紀の初頭、ルドルフ・シュタイナーによって提唱された身体芸術です。
当時シュタイナーはヨーロッパ各地で講演会を行なっていました。
後に彼は自らの思想を人智学として樹立しましたが、この講演会の講聴者であった、ある母親が自分の娘の進路相談をシュタイナーに求めたのが、シュタイナーがオイリュトミーを提唱するキッカケになったと言われています。
1911年のある日、母親はシュタイナーの元を訪ね、こう聞きました
「娘は間もなく学校を卒業しますが、彼女は体育や踊りが好きなので、将来、身体運動に纏わる道を考えています。シュタイナー博士の思想は人間の認識論、自然界の認識論など多岐にわたっていますが、この博士の思想を基盤とした運動芸術というものは考えられるのでしょうか?」
母親のこの質問が、シュタイナーが具体的にオイリュトミーを提唱する契機になったと言われていますが、シュタイナー自身はそれよりも以前の1905年か06年ぐらいからオイリュトミーの着想を持っていました。
 その当時、シュタイナーは自分の講演会に参加していたある女性ダンサーに、「自分の講演内容を基盤とした舞踊は考えられるか?」という質問を残しています。女性ダンサーは「出来ます」と答えましたが、シュタイナーは彼女の回答理由ではまだ身体芸術として高めるのには未熟であると考え、この着想は、その時点ではシュタイナーの内で温存され続けられました。
 時は経って、1912年1月に進路相談を受けた母親の娘・ロリー・マイヤー・スミスはシュタイナーから直接、オイリュトミーの稽古を受けます。彼女はオイリュトミー史上最初のオイリュトミストとなり、のちに舞台活動と指導を行なうようになりました。

 1922年には世界で最初のオイリュトミー学校・オイリュトメウム・シュトゥットガルトがドイツのシュトゥットガルトに設立されました。
1924年、この学校に当時16歳だったエルゼ・クリンクがルドルフ・シュタイナーの直接の推薦を経て入学。エルゼ・クリンクはパプアニューギニア人の母親とドイツ人の父親との間に生まれたハーフでしたが、容姿は完全に母親譲りでした。生まれはパプアニューギニアの森林地帯で、幼少期の頃、父親は娘のエルゼだけを連れてドイツに戻りシュトゥットガルトのシュタイナー学校に入学させました。

1924年当時、エルゼ・クリンクはシュタイナー学校の高等部に就学していましたが、シュタイナーにその身体的才能を見込まれ、午前中は高等部の授業に参加し、午後はオイリュトメウムの授業への参加が認められたのでした。
 エルゼ・クリンクはオイリュトメウム卒業後、同校の指導と代表に就任しましたが、1930年代半ばナチス党がドイツの政権を握ると、国内のオイリュトミー活動は一切禁止されました。実際にエルゼ・クリンクがオイリュトメウムで授業をしている最中にナチスのゲシュタポ(秘密警察)の男性2人が乗り込んできたというエピソードも残っています。
エルゼ・クリンクは2人に
「ご覧の通り、今私は授業中なのです。お話は授業が終わったら伺いますから、そこで授業を見学していてください」
と告げたそうです。
ゲシュタポの2人はおとなしく授業を終わりまで見学していったそうです。
エルゼ・クリンクのオイリュトミー活動禁止令は第2次大戦の終戦まで続き、この間エルゼ・クリンクはドイツの軍事工場でパラシュートの製作に従事させられました。
終戦後、オイリュトミーの活動禁止令は解かれましたが、廃墟と化した街ではすぐにはオイリュトミー学校を再建するわけにはいきませんでした。
エルゼ・クリンクは終戦から1960年代まで、シュトゥットガルト近郊のケンゲンという小さな村に身を寄せ、そこに小さなスタジオを建てて、オイリュトミーのワークショップを展開していきました。




1963年には経済的支援者が現れ、戦争で破壊された同地にオイリュトメウム・シュトゥットガルトが再建・開校しました。
この時期にオイリュトメウムに入学したのが、のちに同校の代表となるミヒャエル・レーバー氏ですが、彼はその16年後の1979年に日本で初めてのオイリュトミー公演を行うことになります。

 また、1950年代から60年代にかけては、日本のシュタイナー思想の第一人者・高橋巖氏がシュタイナーを研究するためドイツに留学していた時期とも重なり、文学界では澁澤龍彦氏が著作の中でシュタイナーを紹介し、舞踊界では大野一雄氏、土方巽氏、そして笠井叡が活動を展開し始めた時期と重なります。

 ペルセパッサ・オイリュトミー団の母体となったオイリュトミーシューレ天使館を設立した笠井叡は、この時期、澁澤龍彦氏を通して高橋巖氏と出会います。




 1971年、笠井叡は天使館を設立しました。
多くの若者が連日連夜、自分の身体の修練のために天使館に集い、稽古をし、作品を発表していきました。
すでにこの時期から、言葉と身体の結びつきを探求し、さまざまな角度から光をあてていた笠井叡は、ドイツでオイリュトミーを広めているエルゼ・クリンクとの結びつきを感じており、70年代中期には、エルゼ・クリンクとコンタクトを取るようになりました。




エルゼ・クリンクとの繋がりが出来た笠井叡は1979年にドイツへ渡独し、オイリュトメウムに入学。また同年、日本で初のオイリュトミー公演実現のため、オイリュトメウムの舞台グループのメンバーであったミヒャエル・レーバー氏とゲイル・ラングノフ氏が来日、日本で公演を行いました。
 翌年の80年に笠井叡は日本に残った他の家族をドイツへ呼び寄せ、次男で現ペルセ・メンバーの笠井禮示はこの年、シュタイナー学校に入学し、オイリュトミーと出会いました。
  1981年、エルゼ・クリンクはオイリュトメウムの舞台グループを引き連れて日本に来日し、各地で公演とワークショップを行いました。この来日中、舞踏家・大野一雄氏との出会いもあり、オイリュトメウムではエルゼ・クリンクと大野一雄氏のツーショットの写真が今でも大切に保管されています。
笠井叡は1983年にオイリュトメウムを卒業し、その後2年間は舞台グループに残り、ヨーロッパ・ツアー、アメリカ・ツアーに参加しました。




  1985年にドイツから帰国した笠井叡は、日本各地でオイリュトミー・ワークショップを展開していきました。この当時、笠井叡のワークショップを通してオイリュトミーに出会ったのが、ペルセパッサ・オイリュトミー団の設立メンバーの一人であった谷合ひろみでした。彼女は80年代終盤から90年代初頭の4年間にオイリュトメウムに留学しました。




  1991年に笠井叡は天使館を新たに四年制のオイリュトミー学校として開校し、「オイリュトミーシューレ天使館」と命名しました。
開校式には高橋巖氏、大野一雄氏をはじめ、ドイツからミヒャエル・レーバー氏が招かれ行われました。
入学した第1期生は91年から95年の4年間をここで学び、卒業公演は日本各地の他、ドイツのシュトゥットガルトとハンブルグで行なわれましたが、エルゼ・クリンクはその約半年前に逝去し、この模様を観ることはかないませんでした。




 第1期生の卒業から3年を置き、1998年にオイリュトミーシューレ天使館は第2期生を募集、開校しました。
この期に入学し、現在ペルセパッサ・オイリュトミー団のメンバーとして活動しているのが、定方まこと、寺崎礁、原ひとみ、新保圭子、桑原敏郎です。
またそれぞれ4年間のオイリュトメウム留学を終えて帰国していた谷合ひろみと笠井禮示は、シューレの2期生からオイリュトミーシューレ天使館の講師として携わるようになり、のちに彼らと共に2004年にペルセパッサ・オイリュトミー団を設立することになります。

 オイリュトミーシューレ天使館はその後、第3期生、4期生、5期生と継続的に4年制のオイリュトミー学校として活動していますが、2010年からは第3期を修了したメンバーがペルセパッサ・オイリュトミー団に加わり活動を共にしています。
現在、3期生の修了生から浅見裕子、鯨井謙太郒、野口泉、小松宏佳、塩月伊作がペルセ・メンバーとして共に活動しています。

 オイリュトミーシューレ天使館は、開校以来、1922年に開校された初のオイリュトミー学校のシュトゥットガルト・オイリュトメウムとの結びつきを育みながら歩んできました。
またその歩みは、日本のオイリュトミーの歴史の新時代を切り開いたとも言えます。ペルセパッサ・オイリュトミー団は、この歴史という土台の上に築かれたオイリュトミーの舞台公演グループです。