2018-08-10

・ペルセ通信 その3 笠井禮示




「思考力を通して生命は知覚できるのか?」  笠井禮示



難しそうな題名になりましたが、タイトルに反比例して中身は難しくないので一読していただけたら幸いです。

生命は見ることも触ることも出来ません。しかし自分の呼吸や、心拍、熱、ありとあらゆる身体感覚に注意深く意識を向けると、自分が生きているという実感と、生命力に包まれているという予感を持つことが出来ます。
自分が生きているという実感とは、自分を「確かな存在」として感じることですから、今度は自分の周りに生命的な予感と存在に出会いたいという要求が自然と生じます。
逆にもし自分が生きているという実感や、生命力に包まれているという予感を持てなかったら、自分の存在は「不確かなもの」としか思えず、周囲の生命的な予感や存在にも盲目的になってしまうかもしれません。
ウチには二匹の猫がいますが、彼らは年がら年中、お互いにジャレ合ったり、ペロペロと舐め合ったりしています。その様子を見ていると、猫のように生命ある存在は、確かに自分の周囲に生命的なものを求め、その存在と共存していきたいという欲求が本能的に備わっているのだなと感じます。


「人間は一人では生きていけない」という言葉をよく聞きます。
誰の助けも借りず、たった一人の力で生きているように思えるゴルゴ13も、彼に仕事を依頼する依頼人がいなければ、食っていけません。つまりゴルゴ13と言えども、他者という生命存在があるから生きていけるのです。彼は他人の生命を奪うのが仕事なので、なんとも矛盾した話ですが。
たった一人で無人島に流れ着いたロビンソン・クルーソーも、周囲に人間はいませんでしたが、生命溢れた豊かな自然界があり、その恵みを受けて生き延びることが出来ました。
生命あるものが生命を求めるのは、生命のもつ特徴です。






シュタイナーは、人間が自分の内にも、周囲にも、生命的な存在や活動を求め、知覚しようとする力は、思考の持つ大切な力だと述べています。
そのような思考の捉え方は、一見、ピンと来ないかもしれません。「思考型」と言った場合、どこか「冷徹」、「沈着」というようなイメージがあり、生命的な躍動感からは遠いと思ってしまうからです。
しかしシュタイナーは「思考とは単に理解して環境に適応する力ではない」とした上で、幼児期における人間の思考力が、思考力として意識上には現れず、その力を肉体の形成に作用させている、と述べています。肉体の形成がある程度完成すると、人間は、今度はその同じ力を思考する力として意識するようになります。ですから思考力は最初に、「生命の形成力」として人間に備わって現れるのです。そして思考そのものは、生命的な力にあふれています。幼児期においては、その力が肉体の形成に作用します。
では肉体が完成した成人においては、「思考における生命の形成力」は知覚出来るのでしょうしょうか?
例えば、私が「星」について思考を巡らせたとします。この時、星は「思考内容」であって、思考力そのものではありません。しかし星という思考内容を取り巻いて、考える力は思考力と呼べるでしょう。そして、その「作用全体」を引き起こしている力は、生命力なのかもしれません。こうして考えると、思考力と生命力は結びついた力であるような予感が持てます。
もし私たちが「思考内容」を持たずに、思考力そのものを捉えることが出来たら、直接に「生命の形成力」を知覚出来るかもしれません。

例えばオイリュトミーにおいて、音や和音やフォルムを記憶している過程では、頭をフル回転させて、必死に入ってきたものを繋ぎ止めようとしています。この時、「記憶する対象」は頭の中を「出たり入ったり」します。私たちはそれを必死に繋ぎ止めようとしています。この段階では対象は、まだ「完全な思考内容」にはなりきれず、いわば「未来の思考内容」です。なぜなら対象が「出入り」を繰り返している間は、まだそれが自分の中にしっかりと定着しておらず、冷静な思考内容として建設的な思考作業に取り込めないからです。
むしろこの段階の私たちは、思考しているよりも、頭の中に入ってきた対象を必死に繋ぎ止めようと苦労しています。そしてやがて「無我無心」の状態になります。
そこでは時間の流れや、巷の騒音など一切の外界を遮断し、自分の内的な能力の全てを総動員して、「記憶する対象にのみ」向かい合っている状態になります。
この瞬間の身体感覚に細心の注意を向けてみると、「思考における生命の形成力」に直接触れていると同時に、「未だ思考内容に染まっていない純粋な思考力の姿」と出会っていると予感出来ます。
このように「記憶しようとする行為」は思考内容と結びついた思考とは別の、「生命の形成力」に満ちた思考の姿を見せてくれます。この力は、かつては肉体の形成を担っていましたが、今度は「記憶する対象」から「思考内容を形成する力」として、人間の内で作用します。「記憶すること」とは「思考内容を形成する」ことなのです。
シュタイナーは「記憶する行為は生命力を活性化する」と述べましたが、逆に私たちが記憶することを放棄した瞬間から、年齢に関係なく「人間の老化」が始まるとも言います。
ですから一回でも多く、この体験を繰り返していくことが、自分自身を新鮮に保つ最高の方法です。これを繰り返すと「記憶しようとする」ことが、苦労ではなく、生命力に直結した行為であることが、かなり明確な身体感覚を伴って自覚するようになります。記憶出来るかは問題ではありません、記憶しようとする意識が大切です。ただしオイリュトミーを目指す場合は記憶しないと困ります。なぜならオイリュトミーは次の段階から始まりますから。
オイリュトミーでは以上の段階を経て、「思考内容にまで高めた対象」をさまざまなものと結びつけて動きます。意志・感情・思考の人間の三分節と結びつけて動いたり、発声力や呼吸と結びつけたり、作品製作で言えば、「磨きをかける作業」ということです。これは「思考内容」を更に次の段階に引き上げる作業です。






ギタリスト・コンポーザーのスティーヴ・ヴァイの次の言葉は、ある対象を血肉化するまでのプロセスを非常に興味深く語っています。

「曲を覚える時は、さまざまなプロセスを経験します。まずは技術的な部分です。弾くべき内容を記憶しなければなりません。覚えようとする作業を何度も繰り返し続けます。すると、その対象を認識するようになります。そのまま暫く経つと、次は弾き方なんて考えなくてもいい状態に入ります。最初は技術的なものを意識しなければならなかったのに、考えるということが邪魔になるという訳です。
自分が弾いているものを認識するというのは、物事を考えている状態とは全く違います。「考える事」は「認識する事」の妨げになるのです。「考えるべき」ではなく「認識すべき」です。弾いているものを認識するようになると、プレイの本質にどんどん近付きます。そうすると、感情を投入する事が出来るようになります」
(2013年来日時)

この言葉は、「記憶した対象/思考内容」の次なる段階は、それを「認識の対象」にまで上げることだと述べています。さらに表現行為における「感情移入」は、かなりのプロセスを経たのちに取り掛かかれる行為であることが分かります。

シュタイナーは全く同じことを述べています:
「Erst denken. Dann Wahrnehmen(まず思考する。そして認識する。)」
「オイリュトミーは覚えたところから始まる身体運動」ですが、このシュタイナーの言葉は、
前半「Erst denken/まず思考する」は「オイリュトミー以前」、
後半「Dann Wahrnehmen/そして認識する」は「オイリュトミーの始まり」
と言えるかもしれません。

では認識することがオイリュトミーの始まりとはなんでしょう?
私たちは「思考における生命の形成力」を通して「記憶する対象」から「思考内容」を形成します。しかし思考内容が思考内容に留まっている限り、それはオイリュトミーを動く力にはなりません。ある一定期間、「思考内容」に対して思考を深めたのち、それを再び「生命力」と結びつける必要があります。
「思考内容の生命化」は思考内容を思考の領域だけではなく、人間の身体のあらゆる能力、とりわけ「発声力と呼吸」、「聴覚」と結びつけることによって生命化します。「思考内容」はこの時、氷が溶けるように徐々に溶解して、全身にくまなく行き渡り、「生命化した身体感覚」として姿を変えます。その新たな身体感覚を知覚することこそ、オイリュトミーにおける認識行為と呼べそうです。