2018-09-14

・ペルセ通信 その4 新保圭子

  


 「作品について」 新保圭子


 こんにちは、新保圭子です。

 まずは7月のアトリエ公演でやった、モーパッサンの「扁舟紀行」についてちょっと反響がありましたので、あれこれ書いてみます。
 この文章は発狂前のモーパッサンが、愛するヨット「ベラミ号」で漂いながら書いた散文の一節らしいです。
ヨットで思い出すのは、実家がある新潟の信濃川の河口には、20年前はたくさんのヨットが停泊していたことです。ヨット乗りの知り合いが、「これ新潟の人たち気づいてないけどすごいことなんだよ。こんな風景はめったに見られない。だけどもうすぐ泊められなくなるんだ。」と残念がっていました。
今でもあのたくさんのヨットの中に、ベラミ号とモーパッサンを見つけることができそうな気がします。







 話を戻してこの作品に出会ったのはシューレ生の頃、たまたま装丁がきれいで手にとった永井荷風の訳詩集「珊瑚集」のなかに見つけました。荷風が生涯何度も手を入れたという「珊瑚集」は、私の大切な本になり、「扁舟紀行」はそれ以来私の生きる糧となりました。
 
「新しき芸術に身を委ねるものは、全力をあげてこの五個の(幽閉せされし感覚の)かんぬきを抜きとらんと試みつつあるなり」

 私はオイリュトミーをやっているけれど、この先にあるものは一体何なんだろう。自分を変容させ続けると、その先に新しい表現があるに違いないという確信。


「官能は、宇宙と不可解との間にたつ唯一の紹介者ならずや」

 身体は宇宙認識の道具である、と私は解釈しました。そのひとつに封印を解いていくというのがあります。それはときに自分の無意識という社会に対して向き合い、自由になることでもあるようです。思い込みというのは社会の掟であったりもするから。そして封印することによって守られていたものが解き放たれたら、そのことを自分が引き受けなければならない。かんぬきを抜きとるというのと重なります。


 そして7月の公演後、いくつかのことばについての示唆をいただいたり、8月にはリルケの「薔薇の内部」の朗唱をさせていただき、新しい課題を持つことができて感謝です。






「この憂いなく開いた薔薇の内海に 映っているのはどの空なのだろう」

 今まではそのことにはあまり興味がなかったのです。でも今回、リルケに少しでも近づいて、少しでもその言葉をわかりたいと思いました。自分なりにですがその世界観の中に入り、すこしその世界を生きることができた気がしました。身体ごと存在ごと、というのが作品づくりの醍醐味かなあと思います。

 身体表現だと、そういうわかってやる部分と、わからないけど表出されるものがあるようです。「宇宙と不可解との間に立つ官能」って、「わかったときの素晴らしさ」と勝手に思っていたけど、そうではないのですね・・・うん、そうではないのです。


 ところで次なる作品を、「古事記」と思って始めました。初めてちゃんと向き合いましたが、日本は今もこの中にいるという直観を持ちました。というかこれ、日本そのものなんじゃないかと思います。そして聖書の黙示録にあたる未来の予言が古事記にはない。でもずっと古事記は更新され続けています。そして未来、どう更新してゆくのか、一人ひとりにゆだねられています。というか神様たちは待っています。だれかが引き受けてくれるのを。

 古事記について、いろいろ思うところ、発見など、いつか機会がありましたら発表したいと思います。なにしろ難航してますんで(大汗)


それではまた!